令和5年度古事記学会大会(公開講演会・研究発表会)を、宮崎県との共催のもと対面とオンライン(Zoom を使用)よるハイブリッド方式で開催いたします。
期日
令和5年6月17日(土)~19日(月)
会場
宮崎県立看護大学(宮崎県宮崎市まなび野3-5-1)
6月17日(土)高木講堂
6月18日(日) 研究教育棟1階・中講義室
交通アクセス
宮崎交通バス 821番線大学病院行き 宮崎駅発(まなび野経由)~県立看護大学下車
宮崎交通バス 822番線宮﨑大学行き 宮崎駅発(まなび野経由)~県立看護大学下車
宮崎駅からタクシーをご利用の場合、2,200円程度
※18日(日)のみ午前9時に宮崎駅東口より送迎バス(宮崎観光ホテル経由、大型バス1台・人数制限あり)が出ます。
日程
6月17日(土)
公開講演会(午後1時~午後4時)
(総合司会)奈良県立万葉文化館企画・研究係長 井上さやか
代表理事挨拶代 表理事 神田典城
大会校挨拶 宮崎県立看護大学学長 長鶴美佐子
現代の歌人と「古事記」の世界
歌人・宮崎県立看護大学名誉教授 伊藤一彦
書物の権威と語りの権威と―国司と『古事記』『日本書紀』―
國學院大學教授 上野 誠
対談
総会(午後4時10分~午後5時10分)
懇親会
6月18日(日)
研究発表会
(総合司会)フェリス女学院大学教授 松田 浩
午前の部(午前10時~午後12時10分)
富山市立図書館蔵 山田孝雄自筆「古事記上巻校異」[仮題]の基礎的考察
皇學館大学大学院生 松本航佑
(司会)京都精華大学教授 是澤範三
山田孝雄の『古事記』本文研究は志波彦神社、鹽竈神社で行われた古事記講義(昭和九年八月開始)を書籍化した『古事記上巻講義一』(國幣中社志波彦神社鹽竈神社 昭和十五年 以下『講義』と略記)によって知ることができる。ただし、その対象とする範囲は冒頭から火神出生までと狭い。だが、富山市立図書館山田孝雄文庫に所蔵されている山田の自筆稿「古事記上巻校異」[仮題](以下「校異」と略記)には、天地初発から木俣神の出生までの校合と訓読が残っており、『講義』よりも先の範囲までを扱った貴重な資料であるといえる。本発表ではこの「校異」を対象として基礎的な考察を行う。
実際に調査してみると、校合に真福寺本や猪熊本をはじめとした九本が用いられ、それぞれ記号で示されている。「校異」の作成時期は不明であるが、猪熊本が五丁表まで朱の追書で校合されていることから、ある程度の推定は可能である。同文庫蔵『訂正古訓古事記』識語によると、山田が猪熊本を手に取り校合を終えたのは「昭和十年五月廿八日」であることがわかる。「校異」における猪熊本校合はそれ以降になされたと見るべきであろう。つまり「校異」は昭和十年五月以降に完成したと考えてよく、五丁表までは昭和十年五月以前に成立したと推定できる。そしてこの時期は上記の古事記講義の時期と重なっており、「校異」は何らかの形で『講義』と関係があると思われる。
それは底本の問題からも指摘できる。「校異」では、四丁裏まで真福寺本を底本としているがそれ以降は寛永版本に移行している。『講義』は寛永版本が底本であると明記されているが、これは「校異」と照合すると初期には真福寺本を底本として講義を行う構想だったのではないかと考えられる。現在、我々の確認できる『講義』の底本が、寛永版本となった経緯を「校異」から読み解くことが可能である。
『古事記』の黄泉国訪問譚と志怪小説との関わり―『捜神記』・秦簡牘の比較から―
國學院大學大学院生 リュウ サイモン
(司会)奈良県立万葉文化館主任研究員 阪口由佳
本発表は、志怪小説における再生説話に着目し、『古事記』の黄泉国訪問譚への影響関係を明らかにするものである。
『古事記』では「黄泉」を「ヨミ」と訓むが、漢語「黄泉」を後漢までの諸漢籍によって確認すると、「遺体不朽」や「陰陽循環の原理」といった要素があり、『古事記』の「黄泉」の概念とは必ずしも一致せず、『古事記』における漢語「黄泉」の受容態度には独自性が認められよう。そのため「黄泉」の受容については、さらに他の時代の漢籍を調査し、『古事記』の黄泉国訪問譚にどのように寄与していたのかを考察する余地が残されているであろう。
六朝期の漢籍で「黄泉」の用例を調査すると、その数は後漢までに比して用例数が少ないことがわかっており、中国の死生観が変化していた可能性が示唆されている。他方で、これまで、廣畑輔雄氏、小南一郎氏、榎本福寿氏は、六朝期に成立した志怪小説の再生説話と黄泉国訪問譚との類似点から、黄泉国訪問譚は志怪小説の影響を受けていたと指摘しているが、両書の相違点には触れてはいない。特に六朝期の代表的な志怪小説『捜神記』における死者再生の最低条件とされる「遺体不朽」という観念について、先秦以来の漢籍が一貫しているものの、黄泉国訪問譚がそれを受容していなかった点は注目すべきである。また、近年発見された秦簡牘「秦原有死者」は、『捜神記』の再生説話と類似しているとの指摘があり、そこに見える「黄圏」は、諸漢籍には見られておらず、黄泉戸喫に対応していると考えられる。しかし、「黄圏」は生者が用意する供物であるのに対し、黄泉戸喫は黄泉国内のものとされており、両者の性質は異なっている。
以上を踏まえると、『古事記』の黄泉国訪問譚は、諸漢籍と志怪小説の影響を受けていたものの、それらは部分的であり、やはり『古事記』には独自の漢籍受容態度があったといえよう。また、中国の考古資料には志怪小説と黄泉国訪問譚との類似点から、今後の漢籍の検討対象範囲を拡大する一助になると考える。
『古事記』「神語」における「束装」の意義
國學院大學兼任講師 小野寺紗英
(司会)昭和女子大学教授 烏谷知子
『古事記』上巻において八千矛神は、須勢理毘売の嫉妬を受けて倭国へ上ろうとするが、出立の際の身支度は「束装」と表現される。続く四番歌では「黒」「青」の衣は適さず、山県に蒔いた「阿多尼」を舂いて染色した衣を「宜し」とし、倭国へ赴くのに相応しい装いとして位置づけられた
「阿多尼」に関しては、諸本に異同がある点(真福寺本「阿多々尼」・他写本「阿多尼」)、また、解釈が「茜」「藍」で分かれる点において、従来問題となってきた箇所であり、未だ定説を見ない。青木周平は『万葉集』において「あかねさす」が「日」へ繋がる点に注目し、「阿多尼」を「茜」と解することで八千矛神を「日の御子」像の起源として捉え直した。
四番歌と同様に「神語」の中に位置する二番歌では「鵼―雉―鶏」が、「夜明け」から「朝」への時間の推移を表す三連対として捉えられ、三番歌では「ぬばたまの夜」と「朝日」の対応関係を確認することができる。「阿多尼」を「茜」と解した時、「黒―青―茜」と変化する八千矛神の装いもまた、「夜」から「朝」への時間の推移を描くものとして捉えられる
また、「束装」の表現は、『古事記』中他に雄略天皇条に見られるのみである。雄略天皇は葛城山において遭遇した一行の様子が、百官の「束装」も含め、自身の行幸と似通っている点に怒り、「玆の倭国に、吾を除きて亦、王は無きに、…」と発言する。「束装」が、雄略天皇を倭国の王として示す要素となる点が注目される。
「神語」において「幸行」「適后」「日子遅」の語句が用いられることから、八千矛神は「葦原中国」という地上の主として位置づけられる。八千矛神が葦原中国の主として装いを整える様子が「束装」によって表現されるのであり、「束装」は、国作りを行うのに相応しい神として八千矛神を印象づけていくための要素の一つとして捉えることが可能なのである。
―休憩―(午後12時10分~午後1時30分)
午後の部(午後1時30~分~午後2時50分)
『豊後国風土記』『肥前国風土記』における天皇の会話叙述の類似と差異について
沼津工業高等専門学校助教 長谷川豊輝
(司会)奈良大学准教授 鈴木喬
本発表は、『豊後国風土記』『肥前国風土記』(以下、両風土記)において天皇を主体とする会話がどのように記されているか比較考察することにより、両風土記が異なる論理により地域を記していることを明らかにするものである。
先行論の論者は、両風土記について大きく二つの観点から考察を行ってきた。
①『日本書紀』との前後関係および間テクスト性の考察。
②両風土記の類似性の考察。
これらの議論は、両風土記が精緻な漢語漢文によって記されていること、太宰府において一括して編纂されたことを明らかにした一方で、それぞれの風土記の叙述の論理の差異については考察の余地を残している。
両風土記における西征の叙述は、律令制の下に地域を統治していく過程として位置付けることができるが、それは天皇による地名の命名として具体的に表れる。特に重要なのは、地名起源を導く天皇の会話叙述である。如上の問題については、すでに荻原千鶴や大舘真晴らにより考察がなされているが、本発表では両風土記の叙述の論理の差異及び『日本書紀』との比較という観点から改めて考察を加えてみたい。
はじめに、『豊後国風土記』における会話叙述を取り上げ考察することにより、当該風土記の傾向として詠嘆の語が使用されることを指摘し、それが地域の解釈を導いていることを確認する。次に、『肥前国風土記』における会話叙述を取り上げ、当該風土記の傾向として適当の語が使用されることを指摘し、それが地域の規定を導いていることを確認する。さらに、後者の傾向は両風土記の総記に共通して確認されることを指摘する。
以上の考察により、両風土記が異なる論理により地域を記していることを明らかにし、加えてこれらが『日本書紀』とも異なるものであることを明らかにしてみたい。
甚泣かば 人知りぬべし―『古事記』歌研究の現状と課題
同朋大学専任講師 山崎健太
(司会)奈良大学准教授 鈴木喬
現在、最も手に取りやすいであろう『古事記』の注釈書として小学館新編日本古典文学全集『古事記』が挙げられる。その新全集『古事記』は冒頭に「古典への招待」として「『古事記』をよむー軽太子・軽大郎女」の物語ー」を載せる。内容は「允恭記」の軽太子が流される話が、同母妹軽大郎女との関係が露見したことによるものであるという詠み方に対する異論の提起である。新全集は82番歌の歌詞「甚泣かば 人知りぬべし」の解釈から、二人の近親相姦関係は露見していないはずであるとして、「兄妹の恋と皇位争いとは、平行して二重に進行するもの」という読みを提示する。
この読みがその後学会の定説となって現在に至っているわけでは決してないであろう。しかし、それに対する明確な反論が大々的に行われた訳でもなく、初学者も手に取りやすい注釈書である新全集の解説はそのままのものとしてある。これは、82番歌の歌詞を現代語訳的に理解する中では、新全集の説明の合理性に対して反論が難しいということでもある。ただ、多くの研究者が新全集の示すテキスト全体に対する説明に賛成しかねている状況もそれとしてある。
ここにあるのは、テキストの中にある歌表現を如何にして読むか、考えるかということの、研究的な行き詰まりなのではないだろうか。本論では、所謂「記紀歌謡」の研究史をたどりながら、如何に理論化され、どのような枠組の中で議論が進んできた結果として新全集的な理解に行き着くのか、また、現在のような議論の行き詰まりを迎えているのかを明らかにする。
具体的には高木市之助から土橋寛を通して神野志隆光に至るまでの「記紀歌謡」の理論化の流れを追うことで、「記紀歌謡」研究が実質的には「記紀歌謡が叙情詩である」ことを所与のものとして固定化し、その枠組故に現在の議論の行き詰まりが発生していることを構造的に明らかにする。『古事記』歌表現研究がこの陥穽を抜ける方法を発表を通して考えたい。
閉会の辞
皇學館大学特別教授 大島信生
6月19日(月)
臨地研究(各自)
※学会からは特に案内はいたしません。
申込方法(会員のみ参加できます)