新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、延期しておりました古事記学会・風土記研究会の合同大会は、オンラインによる研究発表会のみの開催とすることにしました。
下記の日程で開催いたしますので、会員の皆様のご参加をお待ちしております。
期日
令和3年6月19日(土)~20日(日)
会場
オンライン開催(Zoomを使用)
日程
1日目 6月19日(土)研究発表会(午後2時~午後3時40分)
(総合司会)明治大学准教授 植田 麦
古事記学会代表理事挨拶 代表理事 毛利正守
風土記研究会代表挨拶代表 橋本雅之
発表①「風土記における表現規制と逸脱―「まつろはぬ者」をめぐって」
二松學舍大学博士後期課程 西村雪野
(司会)宮崎県立看護大学教授 大館真晴
風土記における表現規制と逸脱―「まつろはぬ者」をめぐって」―
二松學舍大学博士後期課程 西村雪野
中央政府の命により各国から出されたとされる古風土記は、筆録者の意識が、統一国家完成を目指す中央政府とそれぞれの在地の間、つまり官と民の間にあって記述したことにより、書くことと書かないことの取捨選択や、実情からの改変が行われただろうということが、従来指摘されてきた。よって、中央政府の利益と不利益や、在地の民との融和と支配などを考慮した、自己検閲も含む表現規制があったとみてよい。その上で、風土記には、中央と地方のどちらの側によるか、どちらかにどちらかを挿入したというレベルではない、異なる次元の、規制と表現の関係も見いだせる。中央政権を正当化するという規制内部にありつつ、矛盾や表現の異化などによって、結果、その規制から逸脱しているとおぼしき点を、『常陸国風土記』における佐伯・土蜘蛛など「まつろはぬ者」(中央に恭順しない異族)に由来する地名起源譚を中心に提示したい。官に提出する文書である以上、征服者である中央政権を称揚し、反抗者の異族を貶める表現を求める規制があったはずである。しかし、当国風土記茨城郡条では、誅殺される佐伯が、記紀では主に神や天皇など高貴な存在に対して用いられる「出遊」という表現でもって描きだされている。これは、直後に置かれた、佐伯を数々の獣に喩える漢文的文飾を異化し、規制から逸脱するゆらぎを生み出す。『常陸国風土記』には、独自の倭武天皇像、「まつろはぬ者」起源の地名起源譚の多さなど、記紀や他風土記と相違する点がある。当国風土記と、「まつろはぬ者」について描かないという姿勢をとる『出雲国風土記』『播磨国風土記』、さらに『日本書紀』と同様な姿勢で描く九州風土記、及び記紀との比較を通し、風土記における表現規制とそこからの逸脱の一端を紐解く。
発表②「皇學館大学附属図書館沢瀉文庫本の系譜―九州に流布した『出雲国風土記』―」
出雲弥生の森博物館専門研究員 髙橋 周
(司会)皇學館大学教授 大島信生
皇學館大学附属図書館沢瀉文庫本の系譜 ―九州に伝播した『出雲国風土記』―
出雲雲弥生の森博物館専門研究員 髙橋 周
本報告では、皇學館大学附属図書館沢瀉文庫所蔵の『出雲国風土記』(以下、沢瀉文庫本)を中心に考察する。沢瀉文庫本には、奥書や書込み、あるいは複数の蔵書印が認められ、それを手掛かりにその来歴を知ることができる。そこで、その歴史的背景と写本間の関係性について言及する。
まず、沢瀉文庫本の奥書を見ると、伊勢神官家の蔵書を親本とし、「物部敏文」が享保5(1720)年に「神庫」に納めたものとある。この「物部敏文」とは、筑前国鞍手郡多賀神社の大宮司をつとめた青山敏文(1671~1754)と考えられる。享保12年の多賀神社造営棟札には「物部宿祢青山敏文」と記され、本姓を物部宿祢と称したことが分かる。青山敏文は、京都の公家や学者と交友関係をもち、荷田春満や賀茂真淵との関係も窺え、『出雲国風土記』は、かかるルートから入手したと考えられる。
そして、沢瀉文庫本には、享和3(1803)年に「守居」が「小川志純本」で校合したとの書込みもある。「守居」とは、久留米藩国家老有馬守居(?~1814)とみられ、小川志純(1730~1814)は久留米藩町奉行をつとめた人である。つまり、多賀神社の神庫から筑後久留米藩国家老の元へ 伝えられたことが分かる。また、小川志純は別本を所持していたと言え、当該地域での『出雲国風土』の流布も窺える。
次に、そうした歴史的背景をふまえて、本文異同の観点から、沢瀉文庫本と親近性のある写本について言及する。その観点からは、親本に近い写本として神宮文庫所蔵の下井氏本があげられる。下井氏本は、伊勢度会郡沼木郷の宮掌下井忠直が正徳5( 1715)年に自らの所蔵本を書写した写本。
また、久留米市立図書館所蔵の久留米藩絵師旧蔵本は沢瀉文庫本との直接的な関係が窺える。
このように、本報告では沢瀉文庫本を中心に考察し、九州に伝播した『出雲国風土記』の一端を捉える。その中で,地域間の文化的交流や風土記が要請された背景についても付言したい。
※1日目終了後に理事会がございます。
2日目 6月20日(日)研究発表会(午前10時30分~午後1時50分)
(総合司会)奈良県立万葉文化館指導研究員 井上さやか
発表③「日本書紀の六合と葦原中国」
日本学術振興会特別研究員PD 葛西太一
(司会)京都精華大学教授 是澤範三
日本書紀の六合と葦原中国
日本学術振興会特別研究員PD 葛西太一
天照大神が天石窟に籠もる場面について、『日本書紀』巻一(神代紀上・第七段本書)では「閉磐戸而幽居焉。故六合之内常闇。」の後文に「吾比閉居石窟。謂当豊葦原中国、必為長夜。」と続くように、「六合之内」と「豊葦原中国」が対応する。あるいは、『日本書紀』巻三(神武紀)冒頭では、神日本磐余彦が「高皇産霊尊・大日孁尊、挙此豊葦原瑞穂国、而授我天祖彦火瓊々杵尊。」として皇孫による「豊葦原瑞穂国」統治の正統性を確認した後、橿原の地を指して「彼地、必当足以恢弘大業、光宅天下。蓋六合之中心乎。」のように「六合之中心」と表現する。類義の漢語語彙が他にも多く使用される中において、しばしば『日本書紀』では「六合」の使用により「豊葦原中国」や「豊葦原瑞穂国」が結び付けられ得ることに注意したい。
そもそも「葦原中国」とは、『日本書紀』巻二(神代紀下・第九段本書)に「皇祖高皇産霊尊、(中略)遂欲立皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊、以為葦原中国之主。」とあるように、皇孫の治めるべき被支配地を天上から指して言う呼称と考えられる。また、神武東征の途上では橿原の地を指して「中洲」が使用され、皇孫の立場から「葦原中国」を使用する例は確認されない。明確な使い分けが見られる一方、橿原の地を指す「中洲」もまた「六合之中心」と置き換え可能であることは見逃せない。
アマテラスの光華は「六合之内=豊葦原中国」の昼夜を左右し、タカミムスヒとオホヒルメから授けられる「豊葦原瑞穂国」の都は「六合之中心」と表現され、都と定める橿原の地は「中洲」とも呼称される。これら統合性のない各表現は「六合」を媒介とすることによって一連の文脈のもとに関連付けられるのではないか。本発表では「六合」と「葦原中国」やその関連語彙を整理しつつ、「六合」の使用により成り立つ特異な文脈のあることを確認する。
発表④「十九世紀初頭における風土記出版の背景―荒木田久老校訂『肥前国風土記』をてがかりに―」
千葉大学准教授 兼岡理恵
(司会)帝塚山学院大学教授 及川智早
十九世紀初頭における風土記出版の背景―荒木田久老校訂『肥前国風土記』をてがかりに―
千葉大学准教授 兼岡理恵
寛政十二年(一八〇〇)五月に刊行された荒木田久老校訂『肥前国風土記』(以下、『肥前』刊本とする)は、同じく久老校訂による『豊後国風土記』とともに、両国風土記の最初の刊本として、両書が広く流布する契機を作ったものとして知られる。
『肥前』刊本は、その奥書によれば、城戸千楯・長谷川菅緒等のもとめにより、寛政十一年(一七九九)長崎の人・大冢惟年の写本によって校正したものという。同書が出版にいたった背景には、天明から寛政頃にかけて、菅緒・千楯をはじめ河村秀根・青柳種麻呂等が『肥前国風土記』校本を作成しており、このような動きを受けてのものと考えられる。
さらに『肥前』刊本の刊記には、「宇治五十槻久老大人(=荒木田久老)校正/出雲風土記 近刊 一冊/同 豊後風土記 同 一冊」と、久老校正による『出雲国風土記』および『豊後国風土記』の広告が出されている。『豊後国風土記』については、『肥前』刊本と同年十一月に出版された刊本のことだが、『出雲国風土記』に関しては、その刊行は不明である。実はこの『肥前』刊本が出版された同時期、のちに『訂正出雲風土記』(文化三年〈一八〇六〉刊)として出版される『出雲国風土記』校訂本を、千家俊信が、本居宣長の添削を受けつつ作成し開板を目指していた。そして寛政十二年(一八〇〇)六月二八日付俊信宛宣長書簡には、俊信が『出雲国風土記』開板について、久老とやりとりがあったことが示されている。
本発表では、十九世紀初頭に相次いで出版されたこれらの風土記について、その背景を考察していく。
―休 憩―(午前12時~午後1時)
発表⑤「太安万侶は日本書紀に関与したか」
東海大学教授 志水義夫
(司会)上智大学教授 瀬間正之
太安万侶は日本書紀に関与したか
東海大学教授 志水義夫
太朝臣安萬侶「古事記序文」が、『古事記』と『日本書紀』とを内容的につなぐ作品であることを、彼が『日本書紀』編纂に関与したという伝承を機軸に考察した結果を志水2004(『古事記生成の研究』おうふう)の所説を基に発表する。この考察は当該伝承の信憑性に関する問題意識を出発とするが、古事記と日本書紀との成立基盤の位相と平城朝廷における歴史認識の内容と概念を把握することを到達目標としている。
さて、書紀編纂に安萬侶が関与したという伝承は多朝臣人長「弘仁私記序」に発し、『釋日本紀』に紹介され「多神社注進状」にまで至り一説として流布してきた。この伝承については序文偽書説を採る三浦2007(『古事記のひみつ』吉川弘文館)のように人長による祖先顕彰というとらえ方がある一方で、太田1962(『古代日本文学思潮論(Ⅲ)』桜楓社)のように古事記序文の本文に見られる字句と書紀で用いられる字句との共通性から積極的に支持する立場もある。よってここでは太田1962の内的検証を支えとして、外的に、
- ①まず多人長と太安万侶との距離を六国史に登場する多(太)氏を拾いながら確認し、
- ②次に「先代旧事本紀序」と忌部廣成「古語拾遺序」に目をむけ、
- ③志水2004・2009(『古事記の仕組み』新典社)で説いたところの「古事記序文」からうかがえる安萬侶の記紀に対する姿勢と古事記撰録作業内容をふまえて、
- ④書紀と古事記とをつなぐものとしての古事記序文を位置づけ、
- ⑤彼が奏上前の書紀の全体構想への理解があったことを説き、
彼の書紀編纂への関与の可能性を認めるところまでを報告内容とする。
閉会の辞
学習院女子大学名誉教授 神田典城
総会(午後2時~午後3時)
※2日目終了後に理事会がございます。